「人民大会堂のハプニング」
既に千夜一夜55夜で書いた内容をさらに深掘りしたい。
1970年代後半から80年代にかけて、日本は技術立国として君臨していたが、その裏側では中国からの低品質なレアメタル原料に苦しんでいた。中国から輸入されるレアメタルの品質は低く、日本の顧客に「安かろう悪かろう」の原料を供給せざるを得ない状況で、現場は常に苦しんでいた。
当然、日本の顧客は品質の悪さに納得せず、クレームが殺到した。私は商社マンとして、その解決のために何度も中国を訪れたが、交渉は平行線をたどった。品質の悪さは技術力の欠如に起因しており、言葉だけでは解決できなかったのである。
中国の有色金属進出口公司の訪日団がT社の富山工場を訪問した時の事は忘れられない思い出だ。社長自ら現場見学に同行して何から何までオープンに説明してくれたのだ。江西省の801工場の技術者は感激して一気に友好関係が深化した。一緒に宇奈月温泉で歓迎会を催した時は双方が酒を酌み交わし永遠の友情を約束した。技術交流よりも友好関係の樹立が優先した時代だった。
友情が生んだ誤算:惜しみなく流した技術情報の光と影
その後、日本の技術者を中国に派遣し、友好関係と技術交流を通じて品質改善を図った。日本の技術者たちは、中国の若き技術者たちを「同じ業界で発展を目指す仲間、友人」と捉え、友情の内実として更に技術情報を開示した。タングステン業界では、アンモニウムパラタングステンの品質不良が攪拌不足に起因することが判明し、攪拌機の技術交流が行われた。
しかし、中国の技術研究レベルは日本に追いついておらず、品質向上には時間がかかった。日本の技術者たちは、人情の機微に触れ、中国の技術者たちに技術ノウハウを教えたが、それが将来の競争相手を育てることになるとは思っていなかった。
人民大会堂の光と影:35歳商社マンが背負った「栄誉」と「責任」
1983年、中国の貿易組織に大きな変化が訪れた。これまでの五金公司に加え、有色金属貿易公司がレアメタルの取り扱いを開始したのである。これは、タングステン工場の技術改善に伴い、生産工場の上部組織が直接輸出を手掛けるようになったことを意味していた。中国政府としては、外貨不足を補うために管理体制を強化する必要があり、そのための組織変更であったのだ。
そして1983年の春、北京の人民大会堂で、有色金属貿易公司の発足式典が盛大に開催された。私は正式な賓客として招かれ、その歴史的な瞬間に立ち会うことになった。式典前日、私はタングステンの2年間の長期契約を締結したばかりであった。この契約は、日中タングステン取引全体の約三分の一の数量を占める、非常に重要なものであったと記憶している。
式典のクライマックス、私の名前が告げられた。全国から集まった千人以上の非鉄金属業界の代表が見守る中、人民大会堂の大舞台に登壇したのである。35歳の無名の商社マンが、中国政府の要人とプロトコルまで含めて契約サインをするなど、通常ではあり得ない事態である。無論、本社の同意を得ているわけではない。しかし、私は腹を決め、タングステンの長期契約に正式に調印した。2年にわたる技術交流が実を結び、それが人民大会堂という晴れの舞台で証明された瞬間であった。この名誉は、私個人が受けるべきものではなく、地道な努力を重ねた日本の技術者たちにこそ捧げられるべきであったと、今も強く感じている。