お知らせ
2026.10.14
――供給過剰の裏で進むインドネシア支配
ニッケルは「レアメタルの王様」である。私にとってニッケルは特別な金属である。レアメタルを半世紀近く商売してきたが、ニッケルほど産業の表情を映す金属は少ない。過去半世紀にキューバ、ニューカレドニア、豪州、カナダにも通った。ステンレス、特殊鋼、耐熱合金、航空機、化学プラント、そして近年はEV用電池。華やかな新素材が次々登場しても、ニッケルは産業の基礎にどっしり座っている。だから私はニッケルを「レアメタルの王様」と呼びたい。ところが、その王様の世界で大変な地殻変動が起きている。値段が安いのに、供給リスクはむしろ高くなっているのである。普通なら供給が増え、価格が下がれば需要家は喜ぶ。しかし資源の世界では、安いことと安全であることは同義ではない。むしろ安値が長期間続けば、競争相手が消え、最後に残った供給者への依存が強まることがある。現在のニッケルは、まさにその典型に見える。
インドネシアは鉱石を売ることをやめた
転機はインドネシアの政策だった。インドネシア政府は2020年、ニッケル鉱石の輸出禁止を全面的に実施した。「鉱石のまま安く外国へ売るのではなく、自国で加工し、付加価値を国内に残す」発想は極めて明快である。これは資源ナショナリズムと呼ぶこともできる。だが私は、それだけでは本質を捉えられないと思う。インドネシアが欲しかったのは鉱山収入だけではなかった。鉱山の隣に製錬所を造り、その隣にステンレス工場を造り、さらに電池材料まで呼び込むことだった。つまり鉱石輸出禁止は「輸出を止める政策」である以上に、国内へ産業を呼び込む政策だったのである。そして、そこへ巨大な中国資本が入ってきた。
中国の資本とインドネシアの鉱石が結婚した
ここからニッケル産業の景色が変わった。インドネシアには豊富なラテライト鉱がある。中国には資本、製錬技術、巨大なステンレス需要、設備建設能力がある。この二つが結びついた。NPI、すなわちニッケル銑鉄を大量生産し、そのままステンレスまで一貫して製造する巨大工業団地が生まれた。さらにHPALによって低品位ラテライトから電池原料へ進む道も開かれていった。IEAによれば、インドネシアは今や世界のニッケル生産の6割超を占め、中国企業は同国の製錬能力の約75%に関与するまでになっている。これは単なる増産ではない。世界のニッケル産業の重心そのものが移動したのである。
安値の向こう側で何が起きたか
インドネシアから低コストのニッケルが大量に出れば、当然価格は下がる。需要家にとってはありがたい。だが、その反対側を見なければならない。豪州ではBHPが2024年に西豪州のニッケル事業停止を決め、他の豪州生産者も休止や減損に追い込まれた。ニューカレドニアでも高コストのニッケル事業が厳しい状況に置かれている。ここに資源市場の怖さがある。安値によって高コスト生産者が退出する。新規鉱山への投資も止まる。供給源は増えているように見えながら、実際には特定地域への集中が進んでいく。IEAも、ニッケルを含む重要鉱物で供給・精製の集中がさらに高まっていると警告している。私はこれを「安値の罠」と呼びたい。
インドネシアは「限界供給者」になった
昔のニッケル市場では、価格が上がれば複数地域から増産が出てきた。今は構造が違う。世界需要が増えた時、次の100万トンをどこが供給できるのか。答えがインドネシアに集中し始めている。そうなればインドネシアは単なる最大生産国ではない。世界の需給を左右する「限界供給者」になる。石油市場における中東を見るような視点が、ニッケルにも必要になってきたのである。しかも、その生産能力のかなりの部分に中国資本、中国企業、中国技術が深く入っている。ここを日本のステンレス業界は冷静に見なければならない。
資源政策は「今日の価格」ではなく「十年後の選択肢」で考える
私は中国を排除すべきだとも、インドネシアから買うべきでないとも思わない。安く、安定して供給されるなら利用すればいい。しかし一つの供給構造に依存してはいけない。豪州、ニューカレドニア、カナダなどの生産能力を完全に失わせない。リサイクルを育てる。長期契約によって代替供給者を支える。そして日本企業自身も、どの原料をどこから調達するかという技術的選択肢を維持する。資源安全保障とは、一番安い原料を買い続けることではない。値段が変わっても、政治が変わっても、必要な原料を買える選択肢を残すことである。ニッケル価格が安い。だから安心だ。私はそうは思わない。安値が長く続けば続くほど、競争相手は淘汰される。そして最後に残った者の市場支配力は、逆に強くなる。レアアースパニックを見れば分かることである。ニッケルを見る時、値段を見る前に「誰が最後まで作り続けられるのか」を見よ。半世紀、レアメタルの相場を見てきた私には、それが資源商売の一番怖いところに思えるのである。