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2025.11.07

レアメタル千夜一夜 第94夜 初めての中国への旅 ― レアメタル取引の黎明期 ―

1. ブラジルで芽生えた“希少金属”の種


 私のレアメタル行脚の原点は、意外にも南米ブラジルにあった。若き日の私は、地球の裏側で現地商社マンから「ニオビウム」という聞き慣れぬ金属の話を耳にした。鉄鋼の強度を飛躍的に高めるその金属が、ブラジルの山中でひっそりと掘り出されているという。私は雷に打たれたような衝撃を受けた。世の中には、まだ知られざる“資源の宝”が眠っている――。それが、後に私の人生を決定づけるレアメタルの世界との最初の出会いであった。


 帰国後、念願の貿易商社に入社した私は、化学品本部の無機化学品課に配属された。最初は苛性ソーダや塩酸など、いわば基礎化学の世界でキャリアを積んでいたが、やがて運命の転機が訪れる。中国との貿易担当として、未知の市場を開拓するチャンスが巡ってきたのである。


2. 1978年・広州交易会 ― 中国貿易の夜明け


 時は1978年春、改革開放の息吹がようやく漂い始めたころである。私は社の代表として広州交易会に派遣された。目的は明快だった――「中国の無機化学品を日本に紹介し、ビジネスチャンスを掴む」ことである。だが実際には、どんな商品が、どんな品質で、どんな価格で取引されるのか、誰にも分からなかった。


 交易会の会場では、人民服姿の中国貿易公司の担当者たちが、硬い表情で英語のカタログを差し出してきた。私は社命を受け、ありとあらゆる無機化学品の“打診書”を出した。手始めにタングステン、モリブデン、アンチモンを各1トンずつ注文。価格は驚くほど安く、まるで「掘り出し物」を買うような気分だった。


 日本の景気は右肩上がり、商社の誰もが「中国からの輸入は儲かる」と浮き立っていた。いわば“中国ブーム”の初期熱だった。私はその波に乗り、意気揚々と帰国したのである。


3. 「安かろう悪かろう」――初輸入の挫折


 ところが、結果は目を覆うような惨状だった。届いたタングステンは粒度がバラバラで不純物が多く、モリブデンは焼結が不完全、アンチモンに至っては灰混じりで変色していた。いずれも日本の工業規格には遠く及ばず、とても販売できる代物ではなかった。私は頭を抱え、先輩たちに頭を下げて回った。最終的に、東京タングステン、日本無機化学、湖東化学といった取引先に「サンプル評価」という名目で、ほとんど無償で引き取ってもらうことになった。


 だが、ここで諦めなかったのが商社マンの意地である。品質評価のフィードバックを得たことで、翌年からは“クルード品(粗原料)”としての試験輸入が始まった。つまり、日本側で再精製する前提での取引である。中国側もようやく品質改善に取り組み始め、取引は少しずつ安定の兆しを見せた。今にして思えば、これが日本における中国レアメタル輸入の「産声」であった。


4. 国家戦略としての「レアメタル政策」


 当時の中国は、毛沢東時代の鎖国的経済から脱皮し、鄧小平による改革開放政策が始まったばかりであった。外貨を得ることが最優先であり、製品の品質や国際競争力など二の次であった。しかし、1970年代末の政府内部ではすでに「希少金属の輸出こそ、中国が世界で優位に立てる産業である」という国家的構想が静かに動き始めていた。


特に注目されたのは、レアアース(希土類)資源である。江西省や内モンゴル自治区の包頭地区には、世界有数の鉱床が存在していた。加えて、タングステン、モリブデン、アンチモン、チタン、ジルコニウムなども豊富に埋蔵されており、中国は潜在的に「レアメタル大国」だった。政府はこれらを“戦略物資”として位置づけ、計画経済の枠内で国家管理の輸出制度を整備し始めたのである。


 1979年に締結された日中平和友好条約を機に、両国の貿易関係は一気に拡大した。中国政府は、外資導入の窓口として「対外貿易公司」を次々と設立。各省ごとに輸出品目を割り当て、外貨獲得を国家事業として推進した。無機化学品、非鉄金属、レアメタル――これらはまさに外貨獲得の“先兵”であった。


5. 中国の「したたかな」長期戦略


 当時の中国側の取引姿勢は、一見すると拙く見えた。交渉では英語が通じず、数量も品質も不確定。しかし、その背後には明確な国家的意図が潜んでいた。すなわち、「外国資本と技術を使って、自国の資源を高付加価値化し、最終的には世界の供給源を独占する」という壮大な青写真である。


 中国はまず、低価格で粗悪なレアメタルを輸出して外貨を稼ぎ、その後、外国企業の技術協力を得て精製技術を吸収した。やがて1990年代に入ると、包頭や江西の精錬工場が次々と近代化し、レアアースやタングステンの世界シェアは圧倒的なものとなった。


 その始まりこそ、1970年代末の“粗い取引”だったのである。当時の日本商社マンにとって、中国は「安かろう悪かろう」の代名詞であったが、中国にとっては「経験と技術を買う投資期間」だった。40年後の今日、世界のEV産業が中国製レアメタルに依存している現実を見れば、その戦略の巧妙さは明白である。


6. あの春の交易会を振り返って


 いま振り返れば、あの1978年の広州交易会の光景は、まるで文明の接点を見るようであった。人民服の背中に滲む汗、無骨な笑顔、そして分厚い通訳の壁。その向こうに、確かに新しい時代の幕が開こうとしていた。誰もがまだ「中国製」に懐疑的だった時代に、私はタングステンのサンプルを抱えて帰国した。その小さな1トンの試みが、後のレアメタル貿易の礎となるとは、夢にも思わなかった。


 中国は国家として、資源と時間の価値を熟知していた。彼らは「いまは質で負けても、いつか量と技術で勝つ」と信じていた。その信念こそ、今日の中国産レアメタルの覇権を生んだ原動力である。


7. 終章 ― レアメタルの原点は“信念と執念”にあり


 レアメタル取引の黎明期を生きた者として断言できるのは、「資源ビジネスは一夜にして成らず」ということである。品質の壁、文化の壁、政治の壁――それらを乗り越えるのは、最終的には“人の執念”である。1978年春、広州の蒸し暑い空気の中で交わした一枚の契約書が、のちに世界市場の潮流を変える一滴となったのだ。中国が国家戦略としてレアメタルを重視した背景には、単なる経済合理性ではなく、「資源こそ国の独立を支える柱である」という歴史観があった。


 その思想は、やがて21世紀のレアメタル戦争の時代へと続いていく。あの春の旅路こそ、私にとっての「始まりの原風景」であり、世界と中国が手探りで未来を創り出そうとしていた記憶である。

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