お知らせ
2026.04.08
世の中には、すぐに耳目を集める議論と、あとからじわじわと効いてくる議論がある。日本の産業競争力について語られる言葉の多くは、残念ながら前者に属しているように思う。
「日本はもう完成品で勝てない」
「家電もスマホも半導体も主役ではなくなった」
「国際競争力は低下した」
こうした言葉は、いかにももっともらしく聞こえる。たしかに、テレビやスマートフォンのような最終製品の世界では、日本企業の存在感は以前ほどではない。時価総額ランキングを見ても、米中の巨大企業が目立つ時代である。完成品輸出の比率だけを眺めれば、「日本は衰退した」と言いたくなる気持ちも分からないではない。しかし、私はどうしてもその見方に賛同する気になれない。
なぜなら、私は長くレアメタルの世界を歩き、資源と材料と装置がつながる産業の現場を見続けてきたからである。さらに言えば、この一年余りの長い闘病生活のなかで、派手な数字や景気のいいスローガンではなく、本当に強いものとは何かを静かに考え続けてきたからでもある。
そして三月十七日、バッテリーサミットで基調挨拶を行い、その後、懇親会で多くの学者や技術者と面談する機会を得た。その場で私のなかにあった漠然とした確信が、一つの輪郭を持ちはじめた。日本の競争力は、すでに昔とは別の評価軸の上で生きている。もはや「どれだけ多く売ったか」でも、「どれだけ安く作ったか」でもない。日本がいま世界に供給しているものは、工程を止めないという信頼そのものではないか。私はこれを、信頼駆動型産業と呼びたいのである。
日本の製造業は、完成品輸出の減少をもって競争力低下と語られることが多い。だが、この議論には大きな盲点がある。現代の産業は、最終製品だけで価値が決まるものではないからだ。半導体製造装置、精密加工装置、材料製造設備、産業用ロボット、検査装置、制御機器。こうした分野では、日本企業はいまなお世界市場において不可欠な存在であり続けている。しかも、その不可欠さは、単に高性能であるとか、高品質であるとかいう言葉だけでは言い表せない。もっと深いところに理由がある。
たとえば半導体の製造ラインを考えればよい。最先端工場では、装置が数時間止まるだけで、数億円規模の損失が生じることも珍しくない。そのとき問われるのは、カタログ上の性能ではない。「予定どおり動き続けるか」「想定外のことが起きにくいか」「万一の際にすぐ復旧できるか」ということである。ここでは価格よりも、性能の派手さよりも、止まらないことそのものが価値になる。信頼性は単なる美徳ではない。まぎれもなく競争力そのものなのである。
私は資源ビジネスの世界で長く生きてきたが、資源の世界でも本質は同じであった。鉱山を持っていることが強さではない。必要なものを必要なときに、必要な品質で、確実に流せる者が強い。結局、産業の世界で勝つのは、「流れ」を握っている者なのである。日本は完成品の華やかな表舞台からやや距離を置くようになった代わりに、その流れの要所、すなわち工程の心臓部を支える国へと静かに姿を変えてきた。
言い換えれば、日本は「物をたくさん売る国」から、「世界の生産を成立させる条件を売る国」へと変貌してきたのである。この変化は感覚論ではない。輸出構造を眺めても、日本の競争力の所在が変わってきたことは明らかである。かつて日本の輸出は、自動車、家電、一般機械といった完成品が前面に出ていた。しかし九〇年代以降、完成消費財の比率は徐々に低下し、一方で半導体製造装置、精密加工装置、光学部品、真空部材、レジスト、高品位金属、検査装置といった、いわば工程支配型の財の比重が高まってきた。
ここで大事なのは、それらが単なる資本財ではないという点である。汎用機械であれば、多少性能差があっても代替は可能である。だが工程支配型の装置や主要部材はそうではない。それがなければラインが立ち上がらない。それを変えれば歩留まりが落ちる。仮に代替品があったとしても、条件出し、評価、立ち上げに膨大な時間とコストとリスクがかかる。
つまり、日本が輸出しているのは、品目の名前以上に、切り替えにくさであり、止められなさなのである。この構造を見ずに、「完成品輸出が減ったから日本は弱くなった」と言うのは、産業の表層しか見ていない議論である。むしろ日本は、量を競う財から、止められない工程を構成する要素へと重心を移してきた。これは衰退ではなく、適応である。しかも、かなりしたたかな適応だと私は思う。
このことは、私の専門に近い希土類磁石の世界を見るとよく分かる。ネオジム磁石、とりわけディスプロシウムを含む高耐熱磁石は、モーターやアクチュエータ、位置決め機構の中核部材として、半導体製造装置や産業ロボット、精密機械に広く使われている。ここで磁石性能が少しでも狂えば、トルクは落ち、位置精度は悪化し、発熱が増し、ついには工程停止のリスクへとつながる。磁石は単なる材料ではない。装置の信頼性を規定する機能部材である。
ところが、その生産拠点はこの二十年で大きく変わった。量産工程の多くは中国へ移り、日本企業の現地法人や合弁も含め、中国が量の中心となった。家電、IT、小型モーターはもちろん、車載の量産帯でも、中国の設備と労務とサプライチェーンに乗る形が主流になっている。
では、日本は敗れたのか。私はそうは思わない。日本国内に残ったのは、高耐熱設計、減Dy技術、粒界拡散、組織制御、寿命予測、ばらつき評価といった、信頼性の核をなす部分である。量産拠点が中国にあっても、「どの磁石を、どの条件で、どの寿命保証のもとで使うか」という判断軸は、なお日本側の設計思想と評価体系が握ってきた。
これが、いまの日本産業の典型的な姿なのであろう。量は中国、質は日本。いや、正確には“質”というより“頼”と言うべきかもしれない。私はレアメタル屋であるからよく分かるが、資源の世界では「どこで掘れるか」が注目されがちである。しかし産業にとって本当に重要なのは、その材料が最後まで安心して機能し続けるかどうかである。そこには材料知識だけでは足りない。工程条件、熱履歴、加工方法、組立精度、検査法まで含めた一体の知が必要になる。これを支えてきたのが、日本の現場であり、日本の中小企業である。
私はここを強調したい。信頼駆動型産業は、大企業の研究所や本社の戦略部門だけで成立しているのではない。その根っこを支えているのは、中小企業の現場対応力である。昔の中小企業は、「図面どおりに加工する下請け」と見なされがちだった。だが現実はもっと奥深い。グローバル化が進み、最終組立が海外へ移転して以降、日本国内に残ったのは、仕様書だけでは移せない工程である。微細加工、高精度加工、高品位材料の最終調整、立ち上げ条件設定、ばらつき抑制、寿命設計。これらは机上の理屈だけでは動かない。現場の経験知がものを言う世界である。
同じ規格の材料でも、成分のわずかな差、熱履歴、設備状態によって最適条件は変わる。そこを微調整して、「問題が起きない状態」をつくり出す。これは単なる加工ではない。工程全体の成立条件を保証する仕事である。
長い闘病生活のなかで、私は何度もこのことを思った。人間の体もまた同じである。検査値だけでは分からない。表面に現れる数字だけで健康は測れない。目に見えないところで全体の均衡を保っているものがある。医師の判断、看護師の気配り、家族の支え、食事、睡眠、歩行、気力。どれも地味なものばかりだが、それらが噛み合って初めて「崩れない状態」が保たれる。産業もまた、同じではないかと思うのである。
世界を驚かせるような大風呂敷や巨額投資の話は目立つ。だが、実際に世界の工場を動かしているのは、止まらない装置であり、狂わない材料であり、裏切らない部材であり、それを陰で支える現場の人たちである。日本の強みは、まさにそこにある。
こう考えると、日本のレアメタル戦略も根本から見直さなければならない。これまでレアメタル戦略と言えば、鉱山権益、国家備蓄、輸入先の多角化が主役であった。もちろん、それらは重要である。しかし日本は鉱山大国ではない。一次資源の量で勝負する国でもない。中国や資源国と同じ土俵で「どれだけ持つか」を競っても、分が悪い。
日本にとって現実的なのは、どれだけ持つかではなく、どう使い、どう機能させ続けるかである。かつて日本は、高純度インジウムの国際循環で強い役割を果たした。工程くずを集め、高純度化し、再び供給する「巡回させる国」として機能したのである。しかし、そのモデルは長くは続かなかった。高純度化そのものは、設備と人材を投じれば追いつけるからだ。つまり、「質」だけでは、いずれ模倣される。
この教訓は重い。本当に持続する優位とは、物質の純度そのものではない。その材料が、ある装置、ある工程、ある歩留まり、ある寿命保証のなかで、切り離せない形で組み込まれていることにある。タンタルも、ハフニウムも、ルテニウムも、タングステンも、コバルトも、ガリウムも、ゲルマニウムも、希土類も同じである。元素として希少だから価値があるのではない。工程のなかで代わりのきかない役目を果たしているからこそ価値がある。
したがって、日本のレアメタル戦略は、「元素確保」から「機能維持」へ、「供給量」から「工程組み込み」へと軸を移すべきである。私はこれを、たんなる循環経済論としてではなく、もっと骨太の産業論として捉えるべきだと思う。量や純度を競う時代から、工程に“信頼”を与える時代に入ったのである。
この一年、私は病院のベッドの上で、ずいぶん長く考える時間を持った。体力が落ち、先の見えぬ時間のなかで、何が人を支え、何が社会を支えているのかを、以前よりずっと真剣に考えた。派手なものは人の目を引く。だが人を本当に生かすものは、たいてい派手ではない。毎日の看護、食事の加減、歩くこと、眠ること、約束どおりそこにいてくれる人。そういうものが最後に助けてくれる。
日本の産業もまた、そうではないかと思う。世界を驚かせるような華々しさはないかもしれない。だが、止まらない装置、狂わない材料、裏切らない品質、そしてそれを支える誠実な人々がいる。日本はこの領域において、いまも特別な国なのである。もちろん、日本には欠点も多い。決断は遅いし、自己宣伝も下手だし、すぐに悲観論が広がる。だが、それで底力まで失ったわけではない。むしろ、騒がず、驕らず、黙って積み上げる力こそ、いまの不安定な時代にはますます貴重になっている。
私は三月十七日のバッテリーサミットで、技術論や資源論を超えて、本当はそこを言いたかったのである。最後に、私なりの結論を述べたい。日本の技術力とは、単なる工学の成果ではない。それは人間の誠実さであり、職人の矜持であり、そして長年にわたって積み上げられてきた国際的信頼の結晶である。この見えない資産こそが、日本の真の競争力である。そしてアルケミストの目から見れば――本当に強いものは、いつも静かに勝っているのである。