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2026.02.17

レアメタル千夜一夜 第118夜 ユーラシアの心臓に眠る戦略資源―― 中央アジア、静かなる地殻変動

 中央アジアのレアメタル資源を語るとき、私はいつも「時間の層」という言葉を思い出す。地質学的な時間、帝国の興亡の時間、そして商人として現場を歩いた自分自身の時間――。それらが幾重にも折り重なり、この地域の地下と地上を形づくっているからだ。私が初めて中央アジアと向き合ったのは1989年、まだ旧ソ連が存在していた時代である。


 6月の北京天安門事件を経て、世界が冷戦後の新秩序へと軋みを立てて移行し始めた直後だった。同年10月、東ドイツのライプツィヒ メッセを挟んでモスクワを訪れ、私は初めて「資源帝国ソ連」の実像を、レアメタルという切り口で見つめることになる。当時のモスクワは、外見こそ巨大帝国の首都でありながら、内部では制度疲労が隠しきれなくなっていた。資料は揃っているが実態が見えない。


 埋蔵量は莫大だが、誰がどう管理しているのか分からない。テクスナブイクスボルトやラズノインポルトなどの公団から入手した統計はあるが現場がない――。そんな「閉じた資源帝国」の姿だった。しかしその背後に、ウラルから中央アジアにかけて広がるレアメタルの宝庫が眠っていることだけは、確かな手応えとして感じ取ることができた。それはペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)のお陰である。


 何度かモスクワを訪問したが、1993年、私は再びこの激動のモスクワを訪れる。いわゆるモスクワ・ホワイトハウス事件の渦中である。戦車が議会に砲口を向け、国家の枠組みそのものが音を立てて崩れ落ちていく瞬間を、私は現場で目撃した。この出来事は、政治体制だけでなく、資源管理の仕組みが根底から変わることを意味していた。


 この転換期に、私は中央アジアへと向かう。ウズベキスタン、キルギスタン、そして最も深く関わることになるカザフスタンである。中央アジアは一見すると広大な草原と荒野の世界だが、その地下にはソ連時代に徹底的に探査されたレアメタル資源が、ほぼ未開発のまま残されていた。とりわけ私の人生と深く結びついたのが、カザフスタン東部、アルタイ山脈に近い工業都市ウスチ・カメノゴルスク(現ウスケメン)である。ここはソ連時代から非鉄金属・レアメタルの一大集積地であり、ベリリウム、タンタル、ニオブ、インジウム、ガリウムといった戦略金属が複雑に共存する、まさに「周期表の交差点」のような場所だった。


 1990年代半ばから2005年頃まで、私は約10年にわたり、主としてカザフスタンでレアメタル資源開発に携わることになる。この時期の中央アジアは、国家としての枠組みを再構築しながら、同時に「資源をどう売るか」「誰と組むか」という現実的な選択を迫られていた。欧米、中国、ロシア、そして日本――。各国が水面下で静かな資源争奪戦を繰り広げていたのである。


 現場で痛感したのは、中央アジアの資源開発が単なる鉱山ビジネスでは成り立たないという事実だった。インフラは未整備、法律は未成熟、人材は優秀だが制度が追いつかない。資源はあっても、精錬・分離・加工という「川下」が弱い。これは同時に、日本のような技術立国にとって大きなチャンスでもあった。


 ソ連時代の中央集権的な資源管理は、効率という点では問題が多かったが、基礎研究と地質データの蓄積という点では驚異的だった。私は何度も、埃をかぶった分厚い地質報告書に目を通し、その精度と執念に舌を巻いた記憶がある。これらの「遺産」をどう現代に活かすか――。それが中央アジア資源開発の核心だった。


 2000年代に入ると、中国は資源を国家戦略として位置づけ、資金・インフラ・政治関係を一体化させながら中央アジアへと深く浸透していく。一方、日本は慎重であるがゆえに、決断のスピードで後れを取った面も否めない。それでも私は一貫して、中央アジアにおける日本の役割は「量の争奪」ではなく、「質と信頼」にあると考えてきた。そして歴史は再び動く。2025年12月、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンの中央アジア五カ国は、日本との外交対話を通じて、レアメタルを中心とした資源開発を共同で推進するという方向性を正式に確認した。


 これは派手な同盟宣言ではない。軍事色も、声高な対中・対ロの対抗軸もない。だが、だからこそ重い。各国が主権を保ったまま、日本の技術力、環境配慮型開発、精錬・加工のノウハウを必要としているという、静かな合意なのである。ソ連崩壊から30年以上を経て、中央アジアは初めて「自らの資源をどう使うか」を主体的に選び始めたと言ってよい。この動きは、日本にとっても歴史的意味を持つ。レアメタル調達の多角化、サプライチェーンの強靭化、そして脱炭素・半導体・AI時代を支える基盤づくり。そのすべてが、この中央アジアとの協調の先にある。量を追わず、時間を味方につける――。それは日本が最も得意としてきた戦い方でもある。


 振り返れば、1989年のモスクワで見た「閉じた資源帝国」と、2025年12月に示された「開かれた協調の意思」は、同じ中央アジアでありながら全く異なる風景だ。だが、その間をつないできたのは、人と人、現場と現場の積み重ねであった。今回のまとめとして私はこう記しておきたい。中央アジアの地下に眠る金属以上に価値ある資源は、「信頼」という目に見えない鉱脈である。


 それは私がチタンスポンジの長期契約を実現した時、タンタルやニオブの長期取引に成功した時、中央アジアの鉄道ルート修復のODAの調印にこぎつけた時、非鉄金属研究所の設立を実現させた時、いずれも双方の「信頼」が基礎となり実現したものであった。それらが脈々と継続して掘り当てられた今、ユーラシアの心臓は、静かだが確かな鼓動を、新しい時代へと送り始めている。

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