お知らせ
2025.08.19
広州交易会の朝に
1978年の春、広州交易会の開場を告げる太鼓の音が、珠江の湿った空気を震わせた。筆者が初めて公州交易会に参加した時の話をエッセイにまとめた。会場では長机に並ぶカタログと色あせた展示品、まだ英語もままならない案内板――それでも、会場は未来に向けた熱で満ちていた。鄧小平が改革開放政策を掲げたのは同年12月だが、その胎動はすでにここにあった。
当時の中国経済はまだ脆弱で、国全体が「外貨を稼ぐ」ことに必死だった。交易会はそのための大舞台であり、地方からやって来た商社員、外国のバイヤー、そして政府の関係者が入り混じっていた。会場の隅には、日本の革新政党の後ろ盾を持つ「友好商社」のブースが並んでいた。彼らの扱い品目は独特で、「ドンドン、パチパチ、ピョンピョン」と呼ばれていた。ドンドンは花火、パチパチは天津甘栗、ピョンピョンはハムソーセージ用のうさぎ肉である。いずれも日中友好の名目で輸入される「配慮物資」で、政治的意味合いが強かった。
その脇で、我々のような資源志向型の専門商社は、レアメタルの可能性を探っていたが、当時それはほとんど注目されていなかった。資源といえば石炭か鉄鉱石、レアメタルやレアアースは片隅に追いやられた存在であった。
飢餓輸出の現実
当時の中国におけるレアメタルは、国内需要や技術的活用よりも、とにかく外貨獲得のための輸出品であった。いわば「飢餓輸出」である。 そのため品質管理は二の次で、日本の精密工業が求める基準に合う品はほとんどなかった。サンプルは純度99.9%と豪語しても、実際の出荷品は98%を下回ることもしばしばであった。
ある商談でタングステンの品質について指摘すると、相手は「同じ釜で作っているのだから差はない」と笑って返した。後で分かったことだが、燃料節約のために製錬工程を途中で切り上げていたのである。こうした現場の実態に、日本側は驚きつつも対応策を取った。技術者を現地に派遣し、製造工程や分析装置の使い方まで教えることになった。今で言う「現地QA」の先駆けであった。
情報の霧と交渉の迷路
1970年代後半の中国レアメタル市場は、情報の非対称性が極めて大きかった。需給状況も価格相場も不明瞭で、契約条件の正当性を判断する材料がない。交渉の席では、相手が「国内需要逼迫」を理由に値上げを迫れば、こちらも「日本市場の需要低迷」を理由に値下げを求める。互いに霧の中で探り合うようなやり取りであった。
ある日、広交会の裏手の茶館で、中国側責任者と二人きりになった。湯呑を挟み、彼はぽつりと「価格は本社の許可がいる。だが、君がこの後の宴席で私の上司と一緒に歌を歌えば、話は早くなるかもしれない」と言った。その夜、紹興酒の盃が何度も行き交い、やがてカラオケのマイクが回ってきた。「北国の春」を一曲歌い終えると、彼は笑顔で「では、君の希望価格を受け入れよう」と耳打ちした。契約の行方を決めたのは、交渉テーブルではなく、酒席と歌声であった。
4. 友好商社と資源商社のすれ違い
広州交易会では、友好商社の活躍は目立っていた。彼らは「政治任務」を帯び、配慮物資の取引を通じて日中関係を温める役割を果たしていた。 一方、我々専門商社は、長期的な戦略資源確保という全く異なる目的で動いていた。そのため、同じ会場にいても交わす言葉は少なかった。彼らのブースでは、花火や甘栗の実演販売が人だかりを作っていたが、我々のレアメタル資料コーナーには数えるほどしか来訪者がなかった。しかし、その静かなブースで交わされた契約書が、後に日本のハイテク産業を支える基盤のひとつとなるとは、その場にいた誰も想像していなかった。
政治と経済の不安定さ
1978年当時、中国の政治体制はまだ不安定で、経済力も脆弱であった。地方政府と中央政府の意向が食い違い、契約履行が遅れることもあれば、輸出許可が突然取り消されることもあった。こうしたリスクに備え、商社は複数の仕入れルートを確保し、納期や数量を分散して契約を結ぶのが常であった。
ある契約では、港に着いた貨物が税関で止められ、「国内需要優先」の名目で差し押さえられたこともあった。結局、半年後に再交渉の末、別ルートでの引き渡しが実現したが、その間の損失は少なくなかった。
競争の足音と戦略の転換
広州交易会の数年後から、欧米の多国籍企業も中国レアメタル市場に参入してきた。彼らは大口契約と最新技術で中国側の信頼を得ようとした。 日本企業は、価格競争ではなく品質保証と長期供給契約に軸足を移し、政治リスクを減らす方向へと舵を切った。この戦略転換は、1978年当時の経験、つまり「安かろう悪かろう」の製品を何とか使える品質に引き上げてきた試行錯誤の延長線上にあった。
50年前の教訓と未来への視座
1978年の広州交易会は、中国が世界市場に門戸を開いた象徴的な瞬間であったと同時に、日本商社が新たな資源戦略を模索した出発点でもあった。当時、レアメタルやレアアースが今日のように戦略的価値を持つとは、ほとんど誰も考えていなかった。友好商社の賑やかな花火や甘栗の香りの陰で、静かに交わされた一枚の契約書が、後に産業史に刻まれることになる――その事実は、歴史の皮肉であり、また貿易の奥深さを物語っている。過去を検証することは、未来を読む羅針盤となる。あの春、広州交易会で交わした盃と契約書は、半世紀を経た今も私の記憶の中で輝きを放ち続けているのである。