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2025.11.28

レアメタル千夜一夜 第98夜 福建の風に乗って ― モリブデン取引黎明期の記憶

第一章 1987年、広州交易会に吹いた新しい風


 1987年の春、私は広州交易会の会場に立っていた。まだ改革開放から十年も経っていない中国は、国家の骨格を組み替えるようにして地方の企業群が台頭し始めていた。それまでレアメタル取引といえば、すべてが北京の「中国化工総公司」一本で統制されており、地方企業は輸出の窓口さえ持たなかった。ところが、この年、私は福建省の地方化工公司と直接交渉する機会を得た。
取引品目はモリブデン化合物である。


 通常であれば総公司を通さねばならぬ「中央管理品目」であったが、当時の地方分権化政策の風向きが、福建省のような“辺境”にも輸出の自由度を与えつつあった。この“抜け道”を見抜いたのが、私と、後に長い付き合いとなる付秀龍(フ・シュウロン)氏であった。


第二章 付秀龍という名の誠実


 付秀龍さんは福建省出身の青年で、地元の外語大学を卒業していた。当時の中国では、英語を操るエリートは北京外語学院か上海外語学院の出身であることが多く、地方大学出の彼は決して“華やかな経歴”ではなかった。しかし、彼の英語は驚くほど明快で、発音にも訛りが少なかった。何より、誠実で仕事熱心であった。


 当時の私はまだ中国語を十分に話せず、身振りと英語だけが頼りだった。そんな中で、彼の通訳と誠意に支えられた商談は、初めて“人間対人間の取引”として成立したように思う。中国語が分からなくとも、信頼のある人間関係があればビジネスは動く――その真理を教えてくれたのが付秀龍さんであった。


第三章 地方分権化の波とモリブデンの商機


 当時、中国では地方政府に一定の経済権限が委譲され始めていた。福建省でも地方工場が自前で製品を輸出し、外貨を稼ぐ道を模索していた。 モリブデン化合物はもともと北京や河北省の国営工場が握っていたが、福建省の工場が“品質不良のロット”を抱え、販路を求めていた。それが、私たちの取引の始まりであった。


 この工場の原料はスクラップ(scrap)由来で、品質にバラつきはあったが、逆にコストが安く、値引き交渉の余地が大きかった。私は付さんと共に、国際指標である「Metals Week Dealer Oxide」の平均相場を基準に価格を設定し、そこから一定のディスカウントを加えることで長期契約を結んだ。この仕組みは、当時としては極めて先進的な価格メカニズムであり、中国側にとっても新しい挑戦であった。


第四章 利益の方程式 ― スクラップと信頼の狭間で


 福建工場のモリブデンは純度がやや低いものの、工業用には十分な品質を保っていた。この“二級品”をどう扱うかが商社マンの腕の見せ所である。私は日本の需要家、すなわち日本無機化学、日本新金属といった顧客に対し、福建産モリブデンを“安定供給可能な長期契約品”として位置づけた。


 福建側のディスカウント分が、私の営業利益に直結した。表面的には地味な取引だが、年単位で見れば確実に数字を積み上げる堅実な商売であった。当時まだ新入社員であった私の取り扱い量は、月を追うごとに増え続けた。


 やがて北京の総公司から「地方企業を通すとは何事か」という横やりが入るほど、注目を浴びる取引となった。それでも私は、正規の契約と適正な価格を盾に取引を継続した。いま思えば、この粘り強さこそが後のレアメタルビジネスの礎となったのである。


第五章 暴騰と暴落 ― モリブデン相場の荒波


 1990年代に入ると、モリブデン相場は激しく乱高下した。世界景気の波、アメリカの在庫放出、中国国内の供給不安――それらが複雑に絡み、価格は半年で倍にもなれば、数ヶ月で半値にもなった。福建の工場はこの変動に耐えられず、次第に北京、天津、河北の大規模生産拠点へと取引ルートが移行していった。


 中国のレアメタル産業は、まさにこの頃から“国家戦略産業”として再編され始めた。地方の自由取引が終焉を迎え、再び中央集権化の波が押し寄せる。私は、福建の風のように自由で温かかった初期の商売が、中国の経済成長とともに組織的・制度的な管理体制に飲み込まれていくのを肌で感じた。


第六章 黎明の記憶 ― 信頼と友情の軌跡


 いま振り返ると、あの1980年代後半こそ、中国との取引における“黎明期”であった。書類も契約書も不完全で、電話は通じにくく、FAXすら贅沢品だった。それでも、付秀龍さんとの間に生まれた信頼が、すべての基盤であった。彼は時折、福建の土産に手作りの烏龍茶を持ってきてくれた。その香りを嗅ぐたびに、私は「商売は信頼の積み重ねである」と思ったものである。


 やがて彼は省政府系の貿易会社に移り、私は日本で新たな顧客開拓に奔走した。再び会う機会はなかったが、今も心のどこかで“福建の風”を感じている。あの柔らかな英語の響き、誠実な笑顔、そして重湯のように温かい取引の思い出――それらすべてが、私の商社人生の原風景である。


結び ― モリブデンの光と影の向こうに


 モリブデンは単なる金属元素ではない。その背後には、国家の制度、商人の信義、そして時代のうねりが交錯している。1980年代の中国で、地方の若者と異国の商社マンが握手を交わした。そこには国境を越えた信頼と夢があった。


 いま、世界のレアメタル取引がAIとブロックチェーンで管理される時代になったとしても、私は忘れない――。あの福建省の片隅で、二人の青年が交わしたひとつの契約が、のちのアジアのレアメタル市場の礎石の一つになったことを。

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